縦乗りの存在に気付く
自分自身の縦乗りと気付くまでの道は、長く険しくそして辛い道です。しかし縦乗りを良く知り、縦乗りを克服した先にあるものは、何物にも代えがたい価値があります。 それは日本の良さと東アジアの良さ、東南アジアの良さ、そして欧米文化との良さ、そしてアフリカ文化との良さ、そして全世界の文化との良さを調和する為の長い道のりということも出来ます。 そのすばらしさが全て「縦乗り」という巨大な蓋によって覆い隠されているのです。
この巨大な蓋には大切な役割があります。この蓋がなければ日本は日本であることが出来ません。この蓋は日本を守る大切な防御壁となっている ─── と同時にこの蓋が日本のすばらしさを届ける弊害にもなっているのです。
この蓋の存在を認識できるようになり、そしてそこにあることに気付き、そしてそれを自由に開け放ったり閉じたりすることが出来るようになるためには、長い修練が必要です。
この長い道のりは、禅の十牛図 で説明される道程にとても良く似ています。そこでここでは十牛図を例にとって、この縦乗りに気付くまでの長い道のりを御説明したいと思います。
自分自身の縦乗りに気付かない
歩いても縦乗り、走っても縦乗り、立っても縦乗り、座っても縦乗り、踊っても縦乗り、手を挙げても、頭を挙げても、手を下げても、頭を下げても、怒っても縦乗り、笑っても縦乗り、何をやっても縦乗り ───日本人の動作には、客観的に見ると即座にそれとわかるはっきりとした特徴があります。
しかし日本人はこの特徴に気付く事が出来ません。何故なら比較対象を持たないからです。
縦乗りに気付く難しさ
縦乗りの人同士でコミュニケーションをしていても、その縦乗りという特徴に気付きません。他者が比較対象として機能しないからです。人は横乗りの人と出会って初めて、そこで縦乗りの存在に気付くことが出来ます。
この横乗りの人と出会った時、彼は、単に比較対象を持つことが出来たに過ぎません。ここで必ずしも縦乗りの存在に気付くとは限らないのです。 そこから彼は横乗りという他者とぶつかりあい、そのぶつかりあいのなかで自分の違いに気付き、更にその自分自身の違いとぶつかりあい、そのぶつかりあっているものが相手の存在ではなく、自分自身の中に潜む自分自身の特質だったことに気付いて、敵が自分自身の中にいることを認識し、その敵と真摯に向き合う覚悟が出来なければ、その縦乗りの存在に気付くことができません。
─── これは仏門の修行に相当する非常に高い困難が伴う精神作業です。十年以上に渡って、その哲学的な差異と真摯に向かいあって自己を探求する事は決して容易なことではありません。
ここではこの縦乗りという自分自身の中に潜む敵と向かい合う為の武器として、これまでに御紹介したリズム理論を駆使し、縦乗りが起こるメカニズムについて説明します。
その為にまず禅思想の十牛図を御紹介致します。十牛図は、縦乗りの人が自分自身の縦乗りに気付くまでの道程と多くの類似点があります。十牛図の意味を知ることは、縦乗りと向き合う為の大切な武器のひとつです。
十牛図
十牛図とは、禅思想で使われる悟りに到るまでの道程を見える化した10の図のことを指します。 十牛図には数多くの版が存在することが知られており、最も広く知られている版は、宋代の郭安の十牛図と普明禅師の十牛図だと考えられています。
牛飼図は通常、詩と絵からなり、詩自体に短い序文が付いていることもあります。宋代以降、このような作品は数多く作られ、その中でも特に注目すべき3作が「清居」「郭安」「子徳」です。清居の作品は5図、郭安の作品は10図、子徳の作品は6図で、これらの作品の中で郭安の作品が最も完備していると考えられています。
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十牛図の意味
これは中国の仏教の学校 学山禅院 の十牛図解説の抄訳です。
『十牛図』は、宋代の禅僧・廓庵禅師によってまとめられた修行の十段階を象徴的に描いた図と詩文です。牛は「本心(仏性)」を象徴しており、牛を探す旅を通して、人間が本来持っている仏性を自覚し、悟りに至るまでの道のりを表現しています。
この十段階は、単なる順番的な修行ではなく、あらゆる瞬間に悟りのチャンスがあることを示しています。文字や形式にとらわれず、心の本質に立ち返ることが重要であると説いています。
1. 尋牛(じんぎゅう)

- 仏性を象徴する「牛」を探し求めて修行を始めたが、まだその牛を見つけることができない状態です。人間は本来仏性を備えているものの、それを忘れてしまい、煩悩や分別の世界に陥って真実の自己から遠ざかっています。
迷いの中で、自分の本心を探し求めている段階です。牛(=本心)は実は常にそこにあるのですが、私たちはそれに気づかず、外に求め続けます。仏法に出会い、ようやく「本心を探す」必要性に目覚めます。
2. 見跡(けんせき)

- 経典や師の教えを手がかりとして仏性を探そうとしても、依然として煩悩や分別の世界から抜け出すことができず、牛そのものではなく牛の足跡しか見えていない状態です。
ようやく牛の足跡(=本心の痕跡)を見つけます。日常生活の中の見聞触覚や感情のすべてに、本心の働きが現れていることに気づき始めます。ですが、多くの人はまだ文字や形式に執着し、真実の自心を見失っています。
3. 見牛(けんぎゅう)

- 修行を積み重ねていくうちに、ついに牛の姿を実際に目の当たりにする段階です。真実の自己、仏性を実感し始める境地です。
牛の姿がはっきりと見えてきます。つまり、仏性や本心を直接感じ始める段階です。六根(目・耳・鼻・舌・身・意)を通じて、あらゆる現象の中に仏性の働きを見出します。
4. 得牛(とくぎゅう)

- 牛(仏性)を一度捉えたとしても、それを完全にコントロールするのは容易ではなく、時には逃げ出してしまうこともあるでしょう。修行の難しさと忍耐の必要性を象徴しています。
ようやく牛を捕まえることができました。悟りの感覚が明確になりますが、まだ心は安定しておらず、妄想や習気(くせ)が強く、修行の努力が必要です。
5. 牧牛(ぼくぎゅう)

- 牛をしっかりと飼いならす段階を表します。自分の本性(仏性)を確かに手に入れたら、それを失わないよう注意深く見守り制御する必要があります。修行が深まるにつれ牛は徐々に従順になります。
牛をしっかりと調教していく段階です。日常生活の中で心を見守り、妄想が起きたらすぐに気づくようにします。この「牧牛」の修行が、実際の修行の核心です。
6. 騎牛帰家(きぎゅうきか)

- 牛と牧童(修行者)が完全に一体化し、心の平安が得られた状態を表します。もはや牛を制御する必要はなくなり本来あるべき場所へと穏やかに帰ってきたことを表します。
牛に乗って、ゆったりと家に帰る段階です。心の安定と解放感があり、無理せずとも心が本質と調和しています。悟りの余韻の中で、自然体で生きることができるようになります。
7. 忘牛存人(ぼうぎゅうそんじん)

- 心の本来の場所に戻った修行者は、牛を捉えたことすら忘れてしまう状態を表しています。この段階では、牛(仏性)は自然なものとなり、特別な意識の対象ではなくなります。
牛(仏性)を忘れて、人(主体)だけが残ります。すでに牛は完全に調伏され、意識せずとも心は乱れず、平常心で生活できるようになります。悟りへの執着も消え、「無為自然」の境地に至ります。
8. 人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)

- 牛を捉えようとした理由も、牛を捉えたことも、そしてその行為そのものも忘れ去られた状態を表します。主体と対象の区別が消え、忘れること自体もない完全な無我・無心の境地を表します。
人も牛も共に忘れ去られる段階です。修行の対象や主体すら意識から消え、「無心」「無我」の状態となります。知や言葉の働きも超えており、言葉では言い表せない悟りの深みに達します。
9. 返本還源(へんぽんかんげん)

- あらゆる執着や分別が消え去った清浄無垢な境地に戻った状態を表します。ありのままの世界をあるがままに受け入れ、真実の自己と世界の根源的な姿を認識する状態になったことを示しています。
悟りを得た後、さらに「本来のあり方」へと帰っていきます。悟った人は、世俗にとらわれず、また悟りにもとらわれません。ただ静かに、自然のままに生きる姿が描かれます。
10. 入鄽垂手(にってんすいしゅ)

- 悟りを得たとしても、その境地に留まっているだけでは無意味ということを表しています。再び俗世の中に入り、人々と共に生き、人々に安らぎを与え、慈悲と智慧をもって導くことこそが究極の目的だということを表しています。
最後の段階では、修行を完成させた人がふたたび世俗の中に戻り、見かけは普通の人として生きます。修行や悟りの姿を見せびらかすことなく、人々と自然に関わりながら、仏法を伝えていきます。
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